📘第15話(最終話)「初めての転職」
前回までのあらすじ
黒木から、仕事に対して、そして売上に対して貪欲さが足りないと罵られた。
2月の最終日を迎えて、俺の売上実績は、ノルマを達成したとはいえ褒められた成績ではなかった。
なにせ事務所内で、成績が一番低かったからだ。
黒木からすると、もっと上を目指して時間を投資しない俺の事が、さも不真面目に映っていたようだった。そして、黒木は、自分がそうであったように、俺にも仕事に人生をかけさせたかったのだろう。
黒木の立場を考えたら、仕方がないと思った。会社の役員に対して、こんなにも成果を出させましたと、胸を張りたいのかもしれない。だが、俺には、人生を賭け、貪欲に売上を追い、長時間働いてみせるのは、違うと思った。だから、営業時間内で売上を追い求め、それでいて周囲と同等の売上を上げてみせると啖呵を切った。
自信があるわけではない。だけど、黒木に言われるままにプライベートの時間を削るのは、イヤだったんだ。
月末最終日の慌ただしい事務所に居心地の悪さを感じた俺は、逃げるように外商に出掛けた。
途中で、華からの甘い誘いがあって、華が経営するカフェに立ち寄った。カフェにはフリーカウンセラーの東凜が手伝いに来ていた。凛は、とある企業公演に呼ばれていて、参考にと、仕事をする目的について聞いてきた。
俺は真っ先に”売上のため”ってのが頭に浮かんだ。なんだか自分のことが守銭奴みたいに思えて、嫌な気分になる。
お金を稼ぐこと以外に働く目的って何があるんだろうか。最近、良くわからないな。
15-1 躓きから得たもの
3月の滑り出しは順調に思えた。
プレゼンは上手くいき、大きな契約もまとめることができた。商談中の案件もまだ残ってる。
俺は、月半ばでノルマを達成していた。このままいけば、過去最高の売上成績を達成するかもしれない。そう思えていた。
ただ、俺以外の営業マンも当然のようにノルマを達成していたから、別に誇れるものでもない。それに、残業時間の少なさから、変な視線を感じる事もあったしね。
とにかく、3月の真ん中くらいまでは良かったんだ。こう書けば、この後の後半戦がどうなったのか、想像はつくよね。
そう。もう事件だよ。事件が起きたとしか言えないよ。
田村が進めていた契約のお客様からクレームがあって、その対応を俺がすることになったんだけど、とにかく細かいところまで説明を求められて、時間をかなり費やした。
最後には、きちんと解決する事が出来たけど、かなりの時間と労力を必要とした。
最初から丁寧な対応をとっていれば、クレームは起きなかったはずだ。田村を責めるつもりはないが、田村に話を聞いてみると、売上高が小さい契約だったため、何かと後回しにしていたようだ。
雑な扱いをしてしまったとしか言いようがない。
その結果、顧客からの不信感を招き、より丁寧な対応が必要となったのだ。
そのクレームの対応を、なぜ俺がすることになったのか。それはただの偶然だ。
たまたまクレームの電話を取ったのが俺だっただけ。ついてなかったですまない結果になったわけだが、いまさら仕方がない。
3月も残すところ3日となった今日、目標達成は絶望的な状況に陥っていた。
あのクレーム対応がなければ、または、もっと短い時間で解決できていれば、かなりいい成績で今日を迎えることができていたに違いない。そんな考えが頭に浮かんだ。
だが、細かなところまで丁寧な説明を行い、最終的に喜んでくれた先方の顔を思い出すと、時間を費やした事は正しかったと思える。ムダな仕事をしたとは思いたくないな。
さて、今夜は黒木から時間を空けておけと言われている。間違いなく今月の営業成績についての話だろう。会社や黒木が見ているのは、あくまで結果だ。どれだけ売上を上げたのか。あと3日でどれだけできるのか。そして、今月、目標を達成できなかった結果、どうするのか。黒木の話はそんなところだろう。
『営業は結果が全て!数字が人格だ!意見を言いたかったら数字を達成してから言え!』
黒木が普段から言ってることだ。俺に原因がないクレームの処理に時間を取られて他の商談をまとめる時間を取れませんでした。って言い訳は、言うだけムダだろうということは容易に想像ができてしまう。
そんな言い訳をするつもりもないけどね。
15-2 退職を決断した
「それで何か言うことはあるか?」
会議室の中、黒木と向かい合わせに座った第一声がこれだ。
「えと、今月の売上のことですよね?」
黒木は当然だと言わんばかりに眉間にしわを寄せてにらみつけてくる。
「いえ、特にありません。」
言い訳してみようかとも考えたけど、火に油を注ぐようなものなのは明らかだからやめた。
「そうか。ま、何を言っても、もう遅いがな。先月、俺に偉そうなこと言ってくれたんだ。三島。覚悟は出来ているんだろ?」
黒木は表情を変えず、いつもと変わらない口調で淡々と続けた。
「辞めろ。お前みたいなやつは目障りだ。さっさと辞めてしまえ」
確かに『実績を出して見せます』と啖呵を切って、早朝出勤や深夜残業に従わなかったのは俺だ。結果を出せなかった以上、ペナルティを覚悟してはいたのだが、そのペナルティが退職だったとは。
さて、どうする?
即座に「辞めます」とは言えなかった。「辞めろ」と言われる可能性を考えていなかったわけではない。それどころか、いざとなったらやめてやる!くらいのことは、思ったことはあるのだ。だが、いざとなると、その一言を簡単に口から出すことはできない。なんとなく目の前の黒木からの”逃げ”のようにも思うし、辞めた後のことに不安もある。
どう答える?
頭の中では、(もういい。辞めちまえ)とか、(ここで辞めたら、仕事が出来ないから逃げたって思われるんじゃないか?)とか、(転職先、見つかるかな?)とか、いろんなことが思い浮かんでは消えていく。
しかし、考えているうちに、転職してもいいかな?と思えてきた。
だってそうだろう。目標を達成できなかったとはいえ、ノルマは達成しているんだ。マイナスだったわけじゃない。
それに理由もある。クレームの対応に時間を必要としたんだ。必要なことをしていなかったわけではない。だというのに、それらのことを評価してもらえないなんて、あんまりだ。
そもそも就業規則で定められた就業時間内で達成することができない目標が課せられていることがおかしいんだ。異常な残業をして、規則を破る事が前提条件になっているなんて、変じゃないか⁈正しい働き方ではないだろ!
それに、何もこの会社の仕事にこだわる必要はない。他の仕事、他の会社でも似たようなものかもしれない。だったら、心からやりたいと思える仕事の方が良くないか?
そこまで考えた時、俺の気持ちは辞める方に大きく傾き、その意思が口から出ていた。
黒木は表情を変えず「では、明日、退職届を書いて持ってこい」と言っただけだった。
翌朝、黒木に退職届を提出した。あっさりと受理され、午後には退職することが社内に通知された。
退職日は3月31日付になっていた。だが、黒木からは、今日中に机を片付けたら、もう帰っていいし、もう来なくていいと告げられた。
入社して10年。積み上げてきたものは、決して小さくないと思うが、辞める時というのは、こんなにあっさりとしているのか。
俺は、PCのデータを田村に引き継ぎ、机を空にして、まだ残業しているみんなに別れを告げ、退社した。
15-3 自分探し
「会社を辞めるのがこんなに簡単なんだって思ったら、なんか時間を無駄にしていたように思うよ」
俺は、華が経営するカフェのいつものカウンター席に座り、華と凛に辞めた経緯やら何やらを話した。
「ま、ムダって考えても面白くないから、経験を詰んだって思えばいいんじゃない」
やや面倒そうに華が答える。
あっさりと退職届を受理されて、その上、今後の身の振り方も決まっていない俺の心境を思って、もう少し優しい言葉を掛けてくれてもいいんじゃないか?と思う気持ちは、グッと堪えておこう。
「それにしてもよく決断できたね。無職・無収入のニートになるなんてさ。次を探してからでもよかったんじゃないの?」
凛の言葉が痛い。
「もちろん、すぐに仕事は探すつもりだけど、次は自分が心からやりたいって思える仕事をしたいなと思ってるんだ。何がしたいかは決まってないけど…」
「なにそれ!(笑)」
二人に笑われてしまった。
「それで、生活費は大丈夫なの?なんなら、ここでバイトする?」
ひとしきり笑って、華が聞いてきた。
「このカフェでバイトか。華と一緒にいられる時間も増えるし、将来は二人でこのカフェを経営していくのもいいかも?俺も営業の端くれだから、接客ぐらい出来る自信はあるし。お客さんが増えてきたら、アルバイトを増やしたり、2号店を近くに出すのもいいね」
俺が言うと、華が顔を赤らめて凛の方を見た。
「ダメよ!三島さんがここで働くのはダメ。絶対にダメ!私がいるんだから三島さんは必要ないでしょ!」
凜からダメ出しされました。
「ま、冗談はさておいて。三島さん、やりたいことを仕事にしている人って、世の中にどのくらいいると思う?」
「どうだろう?俺もこの10年、なんとなく働いてきたけど、もともとやりたかった事ではなかったしな。やりたいことを仕事にできている人は少ないんだろうね?」
「そうよ。希望通りにやりたい仕事につけている人は少ないわ。さらに、やりたいことだけやって生きることは不可能よ!」
「そりゃそうだ。でも、だったら、どんな風に仕事を選べばいいんだろうね?」
「そうね。いろんなことやっているうちに、これが天職だ!って思えるものが見つかるかもしれないけど、年齢を考えると選択肢は少なくなる一方よね。ま、いろいろ試してみたらいいんじゃないかな」
凛は意地の悪そうな笑顔を浮かべて言った。
「とりあえず、ゆっくり探してみるよ。俺に出来そうな仕事をさ」
俺にとって、初めての転職だ。これまでの社会人経験もある。何かしら、見つかるはずだ。って、ちょっと楽観的すぎるかな?
15-4 転職する勇気
俺はコーヒーのおかわりを華に注文し、ふと店内を見渡した。
こんなことを言うと華に怒られそうだが、オープンした当初に比べて、お客さんの数は随分と少なくなったような気がする。カウンターには俺だけだし、テーブル席も空席が目立った。はっきり言って、暇そうな印象を受ける。俺がバイトに呼ばれる事はなさそうだ。
ぐるっと店内を見渡して、俺から1番近いテーブル席に座っている男性の顔を見て、おや?と思った。どこかで会ったことがある気がする。
相手も俺の視線を感じたのか、こちらを向いた。そして、「あっ!」と声を漏らした。
「久しぶりだね〜。まさかこんなところで会うなんて」
その人は、俺が会社に入社して間もない頃、親の会社を手伝う事になったからと退職した先輩社員だった。名前はなんと言ったかな?確か秋谷さんだったかな?
「秋谷さんですよね。ご無沙汰してます。お元気そうで。今日は、この近くでお仕事ですか?」
秋谷とは、3ヶ月程しか一緒に仕事していないが、よく覚えている。要領よく立ち回る人で、誰からも好かれていたし、慕われていた。営業成績も良かったので、辞めてしまう事を、皆んなが残念がっていた。俺も、もっと秋谷から教わりたいと思っていたくらいだ。
「ああ。この近くでこれから契約があってな。ここで待ち合わせしてるんだよ。それにしても、ほんと久々だなぁ。仕事はどうだ?まだ続けてるんだろう?」
「いや、仕事は辞めてしまいました」
俺は、退職理由を秋谷に話すのは躊躇われたため、ただ辞めたとだけ答えた。
「そうか、辞めたのか。ま、今は1カ所に止まって働く時代じゃないからな。どんどん新しい事に挑戦すればいいよ。で、今は何してるんだ?」
「実は、これから探すところで、今はまだ無職なんです。なんかいい仕事はないっすかね」
「なんだ。決まってないのか?」
秋谷からすると、次の予定もなく退職した俺のことは、さぞ無謀な奴に見えただろうか。眉をひそめ、怪訝そうな表情に変わった。
「お前、まさか仕事がイヤになったとか言わないだろうな。お前、30歳過ぎてんだろ?その歳で転職は厳しいぞ。大丈夫か?」
不安を煽られる。いや。秋谷の事だ。ただ単に心配してくれているのだろう。
「取り敢えず、これまでの営業経験が活かせるところを探すつもりです。」
答えてみたものの、まだ求人情報すら検索していない。自分の危機感の足りなさを感じてしまうが、仕方がない。
「そうか。ま、どうしても見つからなかったら、俺のところに来い。俺のところは常に人材不足で求人も出してるから」
「ありがとうございます。もしかしたら、ご相談に伺うかもしれません。その時はよろしくお願いします」
来いとは言って貰ったが、それが社交辞令であろう事は予想できる。秋谷の実家は、確か不動産の会社だ。という事は、不動産の営業マンを募集しているのだろうか?だが、家族経営で、そんなに大きな会社ではなかったと思う。
しかし、不動産か。俺はアパート暮らしだけど、将来は自分の家が欲しい。
幸せな生活を思い浮かべてみると、そこには快適なマイホームが必要なんじゃないか?と思える。
それは、俺だけではなく、世の中の全ての人がそうだろう。
俺がやりたい仕事はこれかもしれない。そう思うと、大いに興味が湧いてきた。後で求人情報を見てみよう。
黒木とのやり取りから、急に転職する事になったが、初めての転職は、紛れもなく俺の意思だ。自分の将来はポジティブに考えよう。将来、転職した事を振り返った時、『転職して良かった』と思えるように。
俺は、秋谷と連絡先を交換してカフェを出た。
さて、ハロワにでも行ってみるか。
営業マンらしきスーツ姿のサラリーマンとすれ違う商店街が、RPGの始まりの町なら、ハロワは冒険者ギルドと言ったところか。
俺は新しいゲームのオープニングを初めて見た時のような期待感を胸に商店街を通り抜けた。
完

コメント