第1章 黒鉄健一の警察学校生活スタート編
第3話 脱落者
健一は、夜になっても心が落ち着かなかった。朝、警察学校の正門をくぐってから、ずっと誰かと一緒にいて、ずっと誰かに見られている。教場でも道場でも体育館でも、そして寮の部屋でも誰かと一緒。晩飯を教場のみんなと一緒に食べ、風呂は大浴場に一緒に入り、寝るのも8人部屋で一緒に寝る。部活の合宿みたいだな。と思った。ただ、ここには知り合いが一人もいない。気の許せる会話を楽しむなんてことはなかった。
消灯時間を過ぎ、布団に入った健一は、なかなか寝付けなかった。そこかしこから、もぞもぞと寝返りを打つ音が聞こえてくる。他の連中もなかなか寝付けないようだ。スマホでもあれば、眠気が襲ってくるまでの時間を潰すことが出来たかもしれないが、今、誰一人としてスマホの類は所持していない。渡真利の手によって回収されてしまったからだ。
入校前に送られてきた採用通知書に同封されていた書面に、『警察学校に入校する際、スマートフォン、タブレット等の通信機器の持ち込みは禁止されています』と記載されていた。とはいえ、財布は無くてもスマホがあれば、電子マネーで電車も乗れるし食事もできる。手放すはずがない。と、持ってきていたのだが、有無を言わさず回収されてしまった。というか、没収されたのだ。
健一だけではない。ほとんどの新入校生が持参していた。渡真利の持つゴミ袋は、ほぼ人数分のスマホと何台かのタブレットが占めていた。他に回収された物は、タバコとライター、電子タバコのデバイス、エロ本(誰のモノかはわからないが)が入っていた。
回収された物は、教官室に保管され、卒業又は退校時に返して貰えるということだった。
(1年後か・・・)
没収されたものはスマホ1台だけとはいえ、中には様々な情報が凝縮されている。家族や友人の連絡先やメッセージの履歴。いろんなところで撮った写真の数々。データはクラウドに保存されているから、デバイスさえあれば、いつでもどこでも見れるのだけど、そのデバイスが手元にない。見れないと思うと見たくなるし、聞けないと思うとやたらと聞きたくなる。考えているうちにますます寝付けなくなった。
キュッ、キュッ、キュッ、ガチャリ。
廊下を歩く足音に続いてドアノブを回す音がした。顔を上げ、入口の方を見ると、ドアが開き、一人の男が入ってきた。健一のベッドの方へと真っ直ぐに近づいてきたその男は、世話係の渡真利だった。
「おい、加賀谷。起きているか?」
渡真利が小声で声をかけた相手は、健一のベッドの上の段で丸まっていた。
「まだ寝てないんだろ。ほら、起きろ」
加賀谷がのそのそと起き上がる気配がして、続いてベッドを軋ませながら降りて来た。渡真利は加賀谷に”ついてこい”と手招きし、二人は部屋から出ていった。と、同時に他のベッドで横になっていた面々も上半身を起こした。
「なに?なんかあったの?」
寝付けなかったのは健一だけではなかったようだ。隣のベッドの蒲江が小さく声を発した。
「さぁ?俺、加賀谷ってやつとは全然話せてなかったからなぁ」
「あ、俺もしゃべってないぜ。もしかして、誰ともしゃべってなくね?」
蒲江のベッドの上の段にいた高坂の声が降ってくる。健一も高坂が言うとおり、加賀谷が誰かと会話している姿を見た覚えがなかった。
「なんか、布団に頭突っ込んでよう、話しかけるなオーラが出てたっつうかさ。なんか、変な奴だったべ」
「そうだよねぇ。まぁ、初対面だからなれなれしくされるのもどうかとは思うけど、同じ部屋の仲間なんだし、話くらいはして欲しかったよねぇ」
「もしかして、あいつ、どっか具合でも悪いのかな?」
「んなことねーべ。具合が悪けりゃ具合が悪いですって言うっしょ」
「う~~ん」
加賀谷について、健一たちは何も知らない。情報が何もないのだから、わかるわけがない。
「ま、明日、また話しかけてみるよ」
三人は布団に入り直した。だが、翌朝。
「おら!起床時間だぞー!6時起床だって言っといただろー!とっとと起きろー!」
開いた入口から渡真利が叫ぶ声で健一たちは起こされた。
「ふぁ~。おはようございます」
あくび交じりに挨拶をし、体を起こすと、隣のベッドで横になったままの蒲江の姿が目に入った。健一は蒲江の肩をつかみ揺り起こした。
「蒲江くん。おい。蒲江。朝だぞ。起きないとヤバいぞ」
半分起きてはいたのだろう。蒲江は、眠そうな目をこすりながら、
「あぁ、おはようございます」
と、体を起こした。そこに、既に起きてトイレに行っていた高坂が戻ってきた。
「おう、二人ともおはようさん。なぁなぁ。加賀谷ってやつ、いねえんだけどさ、夕べっから戻ってねぇみてえだぞ」
「はぁ?」
健一と蒲江は、高坂の言葉を聞いて加賀谷のベッドを見ると、布団は綺麗に畳まれ、加賀谷の姿はなかった。健一は、昨夜、加賀谷を連れ出した渡真利の後を追い、そして訪ねた。
「渡真利先輩。あのう、加賀谷くんがいないみたいなんですけど・・」
「あ?あぁ。あいつのことは気にしなくていいぞ。あとでわかるから。それよりも、お前たち、点呼に遅れるなよ」
渡真利は説明してくれなかったが、健一は何となく察した。加賀谷は、入校することを辞退したのだ。それも、昨日のうちに。どんな理由かまではわからない。だが、早速、33人いた藤井教場の同期の一人が脱落したということに違いない。
加賀谷のロッカーの荷物は、食堂で朝食を食べて戻った時には、全て綺麗になくなっていた。結局、加賀谷と会話をすることなく、その姿すら見ることはできなかった。
著者より
自分が思い描いた将来をあきらめるとき、自分のことを『脱落した』と嘆いた時期がありました。いや、現実を知るたびに嘆いてしまいます。どうしても、実現できないことはあります。
努力すれば、出来ないことはない。
と思いたいところですが、努力が全て報われるものでないことは、誰でも知っている事実です。
ですが、努力すれば報われる可能性を高めることは出来る。問題は、その努力が、何をもたらですすために行われているか?ということ。そして、無駄になる努力は一つもないということ。
時間を掛けて頑張ってきたことが、たとえ失敗に終わったとしても、その間に積み上げた経験は、必ず糧となっているはず。(そう思わないとやってられません)
さて、次回は、やっと訓練が始まります。社会人になって初めて何を教わったか、あなたは覚えていますか?
私の場合、それは『あいさつ』です。そう、『敬礼』です。
どんな風に教わるのか?
それは次回をおたのしみに。


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